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口で行う悪

般若心経の本を読んで学んだ事をまとめてみました。

「十善戒」という言葉があります。
人間として誰でも守らないといけない戒律で、
・体で行う三つの悪い事
・口で行う四つの悪い事
・心で思う三つの悪い事
があります。

今日はその中で

口で行う四つの悪い事

を取り上げてみたいと思います。

①「不妄語」(ふもうご)
嘘をつくな、いい加減な事を言うな、無責任な事をいうな、という意味です。
ウソは全ての”悪”の始まりです。
小さい頃、親から何度も何度も言われましたね。

②「不飾語」(ふきご)
キラキラと言葉を飾るな、心にもない事を言うな、という意味です。
おべんちゃらばかり言っていてはいけないという事ですね。そのうちに信用がなくなります。

③「不悪口」(ふあっく)
人の悪口は言わぬ事。特に「かげ口」は必ず舌禍(ぜっか)を招きます。必ず最後には自分の所にしわ寄せが来ます。これを「自業自得」・「自因自果」(その結果には必ず自分という原因がある。自分で蒔いた種は自分で刈り取らないといけない)と言います。

空海は「言うことなかれ人の短(短所)。説く事なかれ己の長(長所)」と説いています。

④「不両舌」(ふりょうぜつ)
いわゆる「二枚舌」です。あちらではうまい事を言い、こちらでは裏を返したように全く違う事を言う。
せっかく親しい者同志を仲違いさせるような「不両舌」は絶対に慎みたいですね。

この四つの話し方を守っていれば、他の人とのトラブルは避けられるでしょう。
しかし、私達は「忘れる動物」でもあり、「感情の動物」でもあります。
言うは易しく行うは難しです。

せめて心の片隅に、いつでも取り出せるようにしまっておきたいですね。

ある阿闍梨(あじゃり)さんが仰ってます。
他人をだまさない者は、他人もまた、だまさない。他人をだます者は、かえって他人にだまされる。


心しておきたいですね。
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「まほろば」を求めて

仏教」とは、「死人の後始末」をするものとしか認識していなかったあの頃。
しかし、仏教とは理想的な人格を求めどの様に生きていけばよいのかを説いた学問であると気づいたあの頃。それでもまだまだ実践出来ていないのが現状です・・・・・・。

自分がされてイヤな事は他人にしない
自分がされたい事を他人にする

小さい頃から親から何度も言われてた事と全く同じではないですか。

悲しいかな、人間は忘れる動物。聞いたその時は分かるんですが、あっという間に忘れてしまってます。改めても戒めても・・・・。

「まほろば」とは

「ま」接頭語でしっかりと揃っている意
「ほ」炎の[ほ]、優れた所の意
「ろ」接尾語 状態をしめす意
「ば」場所
だそうです。

では「まほろば」の心とはなんぞや!?

①慈悲の心
②感謝の心
③謙虚な心
④敬いの心
⑤空の心
⑥喜びの心
⑦信ずる心
⑧浄らかな心
⑨和の心
⑩禅定の心

さてさて、自分は一体どれだけ実践出来ているでしょうか。

仏教は知れば知るほど自分の愚かさに気づきます。
どんどんヘコンでいきます。

でも、聞かないと絶対に前進出来ません。

こんな時、ふと思います。

自分はどれだけの人間なのか と。

仏教観

先回はちょっと横道に逸れてしまいましたが、

般若心経を学んでいくうちに仏教とは『学問』だという事に気づきはじめました。
(学問でないかもしれません)

先ずは近所の文化会館に薬師寺管主の安田暎胤(えいいん)氏が講演される事を知り、早速傍聴して参りました。

薬師寺といえば法曹宗の大本山。

法曹宗は唯識教学を元に、阿頼耶識[あらやしき]、末那識[まなしき]という深層意識を心の奥にあるということを認めている教えが特徴です。
まさに深層心理学を教える学問ですね。

難しい言葉ですが、簡単な言葉で表すと、阿頼耶識・末那識とは「無意識」・「潜在意識」とでも言いましょうか。
人は無意識の中に自分に執着し続ける心があるとされています。それも「煩悩」です。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)

般若心経の「色即是空」とはこの意味なのです。


仏教は「人間深層心理学」なのかぁと、今までの仏教観が見事に覆されました。



「人が死んだらお経を読んで死者の霊を慰める」

なんて思っていた今までの自分が恥ずかしかったです。

考え方の違い

よく宗派間での争いを耳にします。

○○宗派は特に浄土の教えを誹謗します。

住職に伺ってみました所、

「あの宗派の宗祖は法華経で救われた。親鸞聖人は浄土の教えである阿弥陀仏によって救われた。だから、あの教えが間違ってるとかのレベルではなく、『私はこれで救われた』だけの事で、法華経が間違ってるとか浄土の教えが間違ってるとかではないのです。」と。

自分の思う教えが正しいと思う心は大切ですが、違った教義を頭から「間違ってる!こっちが正しい!!」と押さえ込むのは如何なものかと・・・いつも思います。

浄土の教えは弾圧の歴史でもあります。

念仏無間

念仏弾圧

阿弥陀仏だけを信じる教義により「一向宗」とも言われた(一向専念無量寿仏:仏説無量寿経)



宗教は一歩間違えると・・・本当に怖いです。

宗教は自由なので、自分に合った教義を信仰すればいのですが、自分の方が正しいと思うあまりに

他の教えを誹謗する。

それって僕たち外部から見てると・・・思いっきり「洗脳されてる」と思っちゃうのですが・・・。


僕も親鸞聖人の教えに「洗脳」されてるのでしょうか(笑)

自力と他力

般若心経は

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
で始まるお経ですが、

意味は
仏説:仏さまが説かれた教え
摩訶:大きく偉大なこと
般若:知恵
波羅蜜多:悟りの境地に達すること
心経:仏教の要点をまとめた肝心なお経

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」

観音様(修行時代のお釈迦様)は波羅蜜多行をを行うと、人も物も形あるものはやがて亡びなくなる事を見極め、苦しみや災難のある此岸(この世の状態)から安楽の彼岸へ渡られた。


波羅蜜多行。これは先回の日記でも書きました「六波羅蜜」の行いです。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵。
とてもいい事ばかり説いていますが、言うは易し、行うは難し。


少し話しは飛びますが、

我々浄土真宗では「般若心経」は読みません。

般若心経の通信講座で、なぜ浄土真宗では読まないのか質問しました所、波羅蜜多行を説く「自力仏教」に対して阿弥陀仏に救われる「他力仏教」の教えの違いにより般若心経を捨てた との回答がありました。

「自力」と「他力」。すぐには理解出来ませんでしたが、「六波羅蜜」の修行をして自分の力で悟りの境地に入るのが「自力」。
自力では悟れないので、阿弥陀仏に救っていただく考えが「他力」。
そのように解釈してみました。

確かに自分に厳しく律して悟りの境地に行ける人はいるのでしょうか?

人間は煩悩ばかりで私には不可能です。

そこで自分の力では無理だから阿弥陀仏に救っていただく・・・いや、救っていただかないといけない人間なのだという事が段々と解ってきました。

                    つづく

稲盛氏から仏の世界へ

稲盛和夫氏といえば言わずと知れた「京セラ名誉会長」で、
先般、日本航空の会長に就任されJALの再建に向けてご尽力されてる人物です。

稲盛和夫


氏の生い立ち等の詳細は割愛致しますが、長年の経営環境において人の生き方・心の持ち方を十分に極められ、我々読者を引き込んでいきます。

----------------------------------------------
人生には「運命」という縦糸と、「因果応報の法則」という横糸がある。
何も努力せず、ただただ運命のまま生きていたら運命通りの人生で終わってしまう。
そこに努力・良き行いを重ねていくと因果応報の横糸により運命はドンドン変わり、良き人生が送れる。

人生の目的とは「己の魂を磨く事。」
人格を高め、優しく美しい心になる事。人生とはその魂を磨く道場である。
では、どうすれば魂は磨けるのか。
それは「必死で働く」のが一番手っ取り早い。
一芸を秀でた人・職人は素晴らしい人間性を持っている共通点がある。

釈尊は悟を開く為の方法として六波羅蜜を唱えた。
・布施 世の為に尽くしなさい。
・持戒 戒律を守りなさい。悪いことをしてはいけません。
・精進 一生懸命働きなさい。
・忍辱 耐え忍びなさい。
・禅定 心を静めなさい。(怒らない)
・智慧 悟れるように努力しなさい。
----------------------------------------------

氏は経営体験の中から そして経営引退後に天台宗のお寺に出家し、剃髪し、修行を重ねました。
その経験からこの考え方が生まれたのだと思います。


そ~か。「六波羅蜜」かぁ。
そう思い、仏教の世界に興味を持ち出したのが私の仏教観の始まりでした。

そこで「般若心経」を覚え、内容を勉強する日々が続きました。

しかし、勉強していくうちに我が家の「浄土真宗」とは違う教義だという事に気づいてきました。

                  つづく

無関心だった自分

若かりし頃、仏教なんて全然興味ありませんでした。
興味ないというより「胡散臭い」とか「死人のあと始末」的な捉え方しか出来ていない状態。

自分が30歳頃の時、祖母の法要が終わって食事をしていた時、師匠寺の住職から
「重願さんは仏教についてはどのようなお考えをされてますか?」
との問いかけがありました。

もちろん何も興味なかったので的確な答えは出来ませんでした。
だって・・・「葬式仏教」としか捉えてなかったのですから・・・。

しかし、何故かその問いかけは・・・ずっと心のどこかに引っかかっていたのです。


それから5年ほどの歳月が過ぎ
突然なんですが、今までの自分の行動の過ち・発した悪き発言・それによって失った大切な友。
それら自分の犯した過ちに気づき、居ても立ってもいられない状況になってしまいました。いわゆる「自己嫌悪」です。
「こんな悪業を犯した自分に明るい未来があるはずがない」
「これからはどうやって生きていけばいいのだろう」
「人はどのように生きていかなければならないのだろう」
と、自分を問い続ける旅が始りました。

そんな時、新規事業セミナーで講師である会計事務所の先生から京セラ創業者の「稲盛和夫」氏の話を伺い、氏の書籍をむさぼるように読み漁りました。

                    つづく

始めました。

はじめまして。

「重願」

「重い願い」ですが・・・

先日、東本願寺にて帰敬式を受けて『法名』を頂きました。

その法名は「釋 重願」。


自分がなぜ仏教の世界に興味を持ったか、

なぜ帰敬式を受けようと思ったのか、


ブログに綴って行きたいと思ってます。

プロフィール

zyuugan

Author:zyuugan
釋 重願

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